王国記 花村萬月

王国記

王国記

花村萬月『王国記』シリーズ第2作
朧の子を身ごもったシスターテレジアを引き受けることになった赤羽元修道士。じつに20数年ぶりに外の世界に触れた彼が視た「よき眺め=ブエナ・ビスタ」とは?その間も朧は、修道院の内外で院生の心を巧みに束ねてゆく。

ゲルマニウムの夜」のあとがきで示された事実。この物語は壮大な「王国記」と呼ばれる叙事詩の一編に過ぎない――私は王国成立を見届ける一人になりたいと切に希い、この叙事詩を読み始めた。
ブエナ・ビスタ」「刈生の春」の2編を収録。
ブエナ・ビスタ
赤羽のいうブエナ・ビスタとは何だったのか。
①隣人体験を語る赤羽の独白より

俯瞰する眼である私は室内に張り詰める凍えた空気であり、部屋の天井に用いられている古びた新建材であり、もちろん私でもあり、窓から覗ける雪の結晶でもあるし、床板の騙絵に似た木目の模様でもある。もちろん偏在しているからと言って自らを神になぞらえるような倣岸な精神状態とは縁がない。だが、しかし、それは、たしかに快感であり、いい眺めである。

とは言いつつも、赤羽は自らを神の容れ物と任じた傲慢さと愚かさをきっかけに、神から嘉されなかったことに気づく。
②朧との会話より

「本を所有するというのは、数ある快感のうちでも、もっとも心地のよいものだからだよ。書物に淫するというのかな。本を所有するということで、なんとなく本質を所有した気になれるのさ」
「ああ、気持ちよかったよ。世界でいちばん気持ちのいいことは、淫していたものに唾を吐きかけること。私にとっては本を棄てること。愛していた本を棄てること。つまり、知識を棄て去ること」

③マンションから見下ろすちゃちな日本庭園「ブエナ・ビスタ

私は私のブエナ・ビスタを凝視し続けた。農場の私の部屋で幸を凝視し続けていたときと同様に見つめ続けた。ひたすら俯瞰し、鳥瞰し続けた。雪が顔に附着し、同じように徐々に解けていく。(中略)しかしもう催眠状態は訪れようもなく、当然ながら隣人体験とも縁が切れた。ここは結界の外なのだ。人為的ブエナ・ビスタと若干の霊的気配はあるが、宗教的な気配はない。二十数年過ごした禁域の、昏く抑圧的な偽善がない。


④含羞みを帯びて笑うヘルス嬢・百合香をみて呟く、「ブエナ・ビスタ
⑤シスターテレジアを引き取ることを決め、「免疫ができているんだよ。免疫が」と言い放った時に見た、たじろいだ朧の顔。「ああ、いい眺めだ。最高だ。」
①の赤羽と比べ、聖書を棄てた②を境に、③④⑤の赤羽の言動を見ると宗教との決別をはっきりと見て取れる。これを堕落と言おうか、あるいは世間への覚醒と言っても良いだろう。俗世に生きる私は心情的に後者と取るのだが。赤羽の視る「ブエナ・ビスタ」を通して、私は宗教の原理主義的価値観・閉鎖性の一端を垣間見た。それは「いい眺め」とは思えない。
赤羽とは対称的に、エスカレートする朧の思想。

「たとえば僕が人をひとり殺したとします」
「それから女の人を犯して新たに生命を誕生させたとします」
「僕の殺人は許されますか」
「君の理屈には、個々人の人生という視点が見事に欠けている」
「どうでもいいことです。瑣末なことっていうんですか。些細なことです。だって僕は、神の視点に立っているんですから」
「君は神になったつもりか」
「ええ。聖職者用図書室に入り浸ってあれこれ読み耽っているうちに、人は神の視点に立つこともできるってことに気づいてしまったんですよ。それって単純に人称のもんだいなんですけどね。神の視点に立つって、神になったことと同義語じゃないですか」

「ねえ、先生。原爆投下も神の摂理ですか」
「さあな。沈黙し続ける神に訊け」
「わかってますよ、その答えの真意。カトリック教徒って、神の沈黙さえも神様の存在証明にしてしまうんですもんね。変態だよ」

いつだって観察者だった、ただの眼だったと自信を語る朧。彼が王国をつくる「手」となる日はいつ来るのだろうか。
「刈生の春」
黙々と牧草を刈り続ける朧たち。

マルクス万歳。こうして大地にへばりついていると、革命を起こしたくなる気持ちが、よくわかる。赤羽のばかは長い年月をこうして大地にへばりついてたくせに、結局のところは嫌味なインテリ特有の高みから俯瞰する癖が抜けなかった。(中略)一切の力を剥奪されているインポ野郎のくせに、神の視点を無意識のうちにとりこんでしまった。宗教とは恐ろしいものだ。知性さえも方向付けしてしまうのだから。
どうでもいい。神の視点なんて、どうでもいい。
どうでもいいからローマ法王も働きなさいよ。凍てついた地面にへばりついて草を刈れ。きっとキリストはあなたではなくて、いまの僕を嘉されると思う。(中略)薄汚い人たちだな、あんたらは。偽善の自覚がないから始末に負えない。
偽善。
なんだ、それは。
砂糖をまぶすとおいしいらしい。
いや、最初から甘い味がついているらしい。世界でもっともおいしいものだよね。

彼が「手」となる日は意外と近いかもしれない。
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