雲の影 王国記Ⅲ 花村萬月

nao-soft2004-09-13

花村萬月『王国記』シリーズ第4作
長崎・五島列島をめぐる旅のなか、言葉と身体を交し合う朧と教子。次第に「支配」と「服従」の境界が曖昧になってくるが―――かろうじて朧はこらえる。遠く東京では、赤羽がヘルス嬢の百合香と運命の邂逅を果たす。
「雲の影」「PANG PANG」の2編を収録。

「雲の影」
教子が地獄の業火のヴィジョンを持っていることを朧に告白する。朧はこの告白を聞き、教子が神を肉体化していることに気づき、自らに深く失望する。
朧は真のヴィジョンを得ること、あるいは神を肉体的に捉えることが自分には不可能なことを次のように分析している。

すべての現実は、意味の固まりに見えるだけの無意味の集合である。心的ベクトルを有していないことの恐怖が現実と言う虚の背後にある。価値がないからこそ、価値の附与に奔走するしかないというジレンマに陥らざるをえないのだ。

という程度のことは理解しているが、本質的な能力が欠如しているため幻影の実体化はできない。ヴィジョンは忘我に宿るのだと朧は推測する。しかし朧が<我>を忘れることができるのは、ある限定的な場合における性行為の頂点と、暴力に熱中しているある瞬間しかない。
 さらに自分以下だと思っていた赤羽も「象の墓場」のヴィジョンをもっていることに気づく。赤羽自身はヴィジョンをヴィジョンと気づかず、ブエナ・ビスタをヴィジョンのように思っているから莫迦なのだが。
 この作品で朧の描く王国のヴィジョンが少しだけ明かになった。

宗教の究極は個のヴィジョンに帰結するのだ。個のヴィジョンの獲得には超越的な才が必要だ。〜ところが僕がつくろうとしているのは〜低レベルな有象無象たちの救済期間のようなものに過ぎないのだ。それならば〜帰依さえすれば万人を受け入れる規制の宗教団体といったいどう違うのかという反論をうけそうだが、僕が画策している王国は、外にはむかわない。宣教、つまり侵略とは無縁なのだ。広まることを拒否する宗教。個に帰する宗教。個の達成を目指す宗教。〜とにかく僕は僕の王国にそういう理想を抱いているのだが、そこに重大な自己矛盾を内包していることにも気づいているのだ。

壮大な王国がつくられることを期待していた私の期待は裏切られ、朧の描く王国像はより内へ、内へと進んでいくようだ。
観念的な朧の宗教観と違い、教子の宗教観はとてもわかりやすかった。

「幸福か。刹那的なもんじゃないのか」
「刹那的なものですか。永続的なものだから幸福なのではないですか」
「すると、僕が幸福だと思っている刹那的な感覚は、ただのお粗末な、瞬間的な快感にすぎないのか」
「幸福を永続的なものにするために宗教があるのではないですか」

理論ばかり捏ね繰り回す朧はなんと幼くみえるものか、教子恐るべし。
「PANG PANG」
百合香の一人称で語られる物語。百合香により、無に赤羽太郎という名前が与えられる。百合香が風俗で稼いだ金を寄付しているってことに衝撃を受けたが、それよりも衝撃を受けたのはあのイカツイおっさんが紡いだとは思えない、20歳の女の視点で語ったその文体の巧みさだ。「雲の影」と「PANG PANG」は同じ人が書いたとは思えないほど全く文体が違うのだ。花村萬月はこういうことができるから登場人物をより鮮やかに描くことができるのだろうと思えた一冊。

★★★★