好き好き大好き超愛してる。 舞城王太郎

好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。

愛は祈りだ。僕は祈る。「恋愛」と「小説」をめぐる恋愛小説。第131回芥川賞候補作。同時収録「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン
 まず表紙がショッキングピンク。タイトルがバカっぽい。表紙をめくるとハートだらけ。そして次のように成人した男性が読むには恥ずかしい文章がはじまった。

 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちにみんなそろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福がそれから皆に降り注ぐといい。僕は世界中の人たちが好きだ。名前を知ってる人、知らない人、これから知ることになる人、これからも知らずに終わる人、そういう人たちを皆愛している。なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。世界の全ての人々、皆の持つ僕との違いなんでもちろん僕はかわまない。人は皆違って当然だ。皆の欠点や失策や間違いについてすら僕は別にどうでもいい。何かの偶然で知り合いになれる、ひょっとしたら友達になれる、もしかすると、お互いにとても大事な存在になれる、そういう可能性があるということで、僕は僕以外の人全員のことが好きなのだ。一人一人、知りあえばさらに、個別に愛することができる。僕たちはたまたまお互いのことを知らないけれど、知り合ったら、うまくすれば、もしかすると、さらに深く強く愛し合えるのだ。僕はだから、皆のために祈る。祈りはそのまま、愛なのだ。
 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つまり未来への自分の望みを言葉にすることであって、それは反省やら後悔やらとはそもそも視線の方向が違うわけだけど、でも僕はあえて過去のことについても祈る。もう既に起こってしまったことについても、こうなってほしいと願う。希望を持つ。祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇蹟を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
 人はいろいろな理由で物語を書く。いろいろなことがあって、いろいろなことを祈る。そして時に小説という形で祈る。この祈りこそが奇蹟を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら。

この後も、ぶっ飛んだ文体とぶっ飛びすぎのストーリー内ストーリーに全くついていけず!何だこれ!これ書いたの変なヤツ!文芸界の漫☆画太郎かよ!と思った。 けれど何か気になってすぐさま2回目を読み始めた。これ書いたヤツいいヤツだよなうんいいヤツとすごく思えた。

 僕は柿緒を愛しすぎるほど愛してみせる。間違っているほど愛してみせる。自分の人生を台無しにしてもいいとバカみたいに思うようにしている。それでいい。
 パスカルは言った。
 愛し過ぎていないなら、充分に愛していないのだ。
 僕は一人で小説を書いている。女の子をふったりもする。バカだなと思う。
 でもバカでいい。間違いばかりでいい。
 愛し過ぎるというのはそういうことなのだ。そしてそれぐらいで、人を愛するにはちょうどなのだ。

 言葉で言わなくても通じ合えるなんて幻想だと思う。だから言葉を重ねなくてはならない。舞城王太郎は言葉を重ねて重ねて重ねて小説=祈りを書いている。
 王太郎先生ありがとういつもおもしろい小説を書いてくれて。
★★★★