すべての男は消耗品である。Vol.6 村上龍

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉

何かを知るということは、何を知らないかをはっきりさせることでもある。経済は人間の精神に影響し文化となってしまう―。
 終身雇用は「庇護」を基礎としている。また日本の庇護社会が、終身雇用という幻想の制度をそのよりどことにしてきたとも言える。いつの頃からか、終身雇用は実態としての雇用形態ではなく「文化」となった。
 これまでの既得権益が大きかったものほど終身雇用幻想を強く持っている。中高年の離婚の増加は、男と女の幻想の度合いの強弱によるものだ。
 結婚してしまえば、コミュニケーションの充実など考えることはないと思っている男たちはいまだに多い。
 一回セックスをすれば、女は「従う」ものだと勘違いしている男もいまだに多いようだ。
 子どもは無条件に親に従うものだと思い込んでいる父親だってたくさん残っている。
 経済は人間の精神に影響し文化となってしまう。狩猟民族に貯蓄という概念がないのと同じで、終身雇用幻想を文化としている国では、たとえば「個人」とか「リスク」とか「インセンティブ」といった概念がない。個人がリスクを受け入れるという言い方は終身雇用幻想の規範から外れることだけを意味する。終身雇用が崩れ没落していく不安を抱く人たちは、終身雇用というシステムが実態として存在していて今やそれがグローバリズムに取って代わられようとしている、などという嘘をつく。
 欧米のような冷たい競争社会になっていいのか、などという恥ずかしい嘘をつく人もいる。グローバルスタンダードと終身雇用幻想を対立させること自体が間違っている。終身雇用幻想が崩れた時に、わたしたちがどのような社会を選び、受け入れるのかは、モデルとする国がないために、誰にもわからない。対立ではなく信頼をベースに経済活動をしてきた日本の利点は残るかもしれない。
 競争社会は、能力を磨く社会であって、他人を蹴落とす社会ではない。
 キューバのことを指し、音楽とダンスの国というと、そこら中で音楽がなっていて人々が踊っているという印象しか持ち得ない、そのような誤解が生まれるのはどうしてだろうか。と著者は問う。実際にキューバでは音楽が垂れ流しになっているわけではない。街中でストリートミュージシャンが演奏し、子どもやお年寄りがしょっちゅう路上で踊っているわけでもない。
 ひょっとしたら日本人は音楽やダンスに限らず「〜が好き」という概念が未発達なのではないだろうか。あるいは、〜が好き、ということと、〜に依存する、ということを混同しがちなのではないだろうか。〜が好き、という感情は、人間にとってもっとも基本的なもので、しかもわかりにくいものだ。わかりにくいという意味は、それが個人的な嗜好に左右され他人にはわかりにくいということと、個人という概念が未発達な国で、果たして個人的な嗜好というものが存在しうるのかという疑問でもある。
 もっとも単純で重要な個人的嗜好は、異性や食べ物・飲物に関することだろう。だが、わたしたちは、例えばある食べ物について、本当に「個人的に」好きになっているだろうか。子どもの頃、大好きな両親が、おいしいおいしいと喜んでカレーライスを食べるのを見て育った子どもにはある種の刷り込みがなされるかもしれない。
 実は、自分で個人的に何かを好きになるのは簡単ではない。〜が好き、とわたしたちは一日に何度も言う。だが、カレーライスとか缶コーヒーのレベルではなく、生きていくために必要な何か、職業とする技術や知識、学問などの場合、それらの対象を好きになるのは簡単ではないような気がする。
 個人という概念が未発達の国では、そういった対象が見つかった瞬間に孤独になってしまうからだ。個人の概念が未発達な国では、個人というのは集団から疎外されることによって際立つ。たとえばメディアの文脈などでは、個人が発生するのは、集団から疎外される場合に限られている。個人的嗜好も集団の影響下にあることが多い。たとえばある部署では巨人ファン以外は疎外されというようなことは決して稀ではない。
 要するに、個人で何かを好きになることのコスト&ベネフィットの問題ではないかと思う。個人的に何か好きなことを見つけたほうが有利に生きられる、というコンセンサスはまだ日本社会にない。
 日本社会の中では、好きなものは釣りですという場合、行く頻度、持っている道具の数や種類や価格、といったことから好きな度合いを測る。
 そういった社会の常識では、音楽とダンスの国、というと、町中で始終音楽が流れ、人々はしょっちゅう踊っていなくてはいけないのだ。だから、キューバを紹介するテレビ番組などでは、街角で演奏する人々やその周囲で踊る人々が求められる。
 「ライフスタイル」は趣味ではなく職業で決定される。ライフスタイルというのは具体的にどういうことを指すのだろうか。対応する日本語がないわけではない。生き方、だ。
 生き方というとき、これまではおもに人生に対する「姿勢」が問われていたような気がする。高潔な生き方、自由奔放な生き方、弱者に対して優しい生き方。というようなことだ。そういう表現は非常にわかりやすい。
 高潔に生きるとか自由奔放に生きるとか言う前に、何によって生計を立てるかという大問題があるはずだが、不思議なことにそのことがライフスタイルの問題として語られることがない。ひょっとしたら、学校に行って企業・官庁に入る、ということが自明の前提になっているのではないだろうか。高度成長は驚異的なパイの拡大を促した。勤め人になりさえすれば、職場を問わず給料は上がっていった。経済合理的にサラリーマンが最も有利だという状況で、ライフスタイルを考えることが可能だろうか。戦後長い間、自分はどこかの企業や官庁に勤めるのだろうという前提でほとんどの男が生きていたのだ。
 そういうときには、誰もライフスタイルなんか考えない。ライフスタイルはその本質から離れて、高潔な生き方というような人生の姿勢や、休日にはヨットに乗るというような趣味を指すようになってしまう。それは広義のライフスタイルには違いない。だがその人はどうやってヨットを購入したのだろうか。休日にヨットに乗ることがライフスタイルではなく、どうやってヨットを買うのかがその人のライフスタイルを決定する。
 つまり、男性のライフスタイルという論議において、職業を選択するという最も重要なファクターが最初から欠落しているのだ。男性に比べて、女性のライフスタイルの論議はシンプルで一般的だが、それは結婚か仕事かという重大な選択肢がまだ消滅していないからだ。
 現在はゼロサムの社会であり、自分にとって、より有利な、より充実感を得ることのできる生き方を選ばなければならない。
 自分は早起きが好きか。通勤電車が好きか。他人にこき使われることが好きか。そう自問するのは無駄なことではないのだ。
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