TVピープル 村上春樹

TVピープル

TVピープル

得体の知れないものがせまる恐怖、生の不可解さ、そして、奇妙な欠落感…。生と死、現実と非現実のあいだ…。小説の領域をひろげつづけてきた作家の新しい到達点。
 『我らの時代のフォークロア ――高度資本主義前史』
 1960年代にはタフでワイルドな空気が満ちていた。そして確かに何か特別なものがあった。もっともそこにあったもの自体は取りたてて珍しいものではなかった。時代の回転が生じさせる熱や、そこに掲げられた約束や、望遠鏡を逆から覗いているような宿命的なもどかしさ…どの時代にだってそういうものはちゃんとあったし、今でもちゃんとある。でも1960年代にはそういうものがくっきりと手に取れるような形で存在したのだ。
 1960年代においては、処女性というのは、現在に比べればまだ大きな意味を持っていた。

 彼はある日、ずっと凍結されていたセックスの問題をもう一度だけ持ち出してみることにした。
 でも彼女はやはり首を振った。そしてため息をつき、彼にくちづけをした。とても優しく。
「私のクラスにも婚約している人がいるの。二人だけれど。」と彼女は言った。「でもその相手の方はみんなちゃんとした仕事についているのよ。婚約というのはそういうものなの。結婚というのは責任なのよ。自立し、他人を引き受けることなのよ。責任を取らずに、何かを得ることはできないの」
「僕は責任を取れる」と彼ははっきりと言った。「僕はいい大学にも入った。これからだっていい成績が取れる。そうすればどこの会社にだって、どこの官庁にだって入れる。何だってできる。君の好きなところに一番の成績で入ってみせる。僕には何だってできるんだよ、やろうと思えば。一体何が問題なんだ?」
 彼女は目を閉じて頭を車のシートにもたせかけた。そしてしばらくじっと黙っていた。「私は怖いのよ」と彼女は言った。そして両手に顔を埋めて泣いた。「本当に怖いのよ。怖くって仕方ないのよ。人生が怖いの。生きていくことが怖いの。あと何年かで現実の中に出ていかなくてはならないことが怖いの。どうしてあなたにはそれがわからないの?どうしてそれをちっともわかってくれないの?どうして私をそんなにいじめるの?」彼は彼女を抱いた。「僕がいれば怖くない」と彼は言った。「僕だって本当は怖いんだ。君と同じくらい怖い。でも僕は君と一緒なら怖がらずにやっていけると思う。僕と君とで力をあわせれば何だって怖くない」彼女は首を振った。「あなたにはわかってないのよ。私は女なのよ。あなたとは違うのよ。あなたにはそれがわかってないのよ、ぜんぜん」
 それ以上は何を言っても無駄だった。彼女はずっと泣いていた。そして泣き止んでから不思議なことを言った。
「ねえ、もしよ……もしあなたと別れることになっても、あなたのことはずっといつまでも覚えているわ。本当よ。決して忘れない。私はあなたのことが本当に好きなんだもの。あなたは私が初めて好きになった人だし、あなたと一緒にいるだけですごく楽しかったの。それはわかってね。ただそれとこれとは別なのよ。もし何かそれについて約束が欲しいのなら、約束する。私はあなたと寝る。でも今は駄目。私が誰かと結婚した後であなたと寝る。嘘じゃないわ、約束する」

「その時僕は彼女が一体何を言おうとしているのか、さっぱりわからなかった」

約束を覚えていた彼女の家に彼は向かった。彼らは抱き合った。でも寝なかった。そしてその足で彼は街に出て女を買った。生まれて初めて。そしておそらく最後の。

 僕は思うのだけれど、この話には教訓と呼べるようなものはない。でもこれは彼の身に起こった話であり、我々みんなの身に起こった話である。だから僕にはその話を聞いても大笑いなんかできなかったし、今だってできないのだ。
★★★