壁 安部公房

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

1951年発表。『S・カルマ氏の犯罪』『バベルの塔の狸』『赤い繭』の3部構成。
バベルの塔の狸』より

そしてついに目玉の害を克服する方法を発見することができた。それは微笑ということだった。一見つまらぬことのようだが、これは偉大な発見だった。ジェームス氏も言っているように、感情によって表情が作られるのではなく、表情によって感情がつくられるのだ。ところで、一般に微笑はその字の示すごとく、小さな笑と考えられているが、それは間違いだ。その説明のために一つ、笑い、悲しみ、恐怖を各頂点とする三角形を想像していただきたい。これを表情の三角形と呼ぼう。さて、その中点と各頂点を結び、その線分上の表情の変化をたどってみることにしよう。悲しみはすすり泣きに、恐怖はこわばりに、次いで無表情に、笑いはしのび笑いにと移ってゆく。ところで注意すべきことは、無表情はやはり一つの表情で、ごく小さなこわばりだということと、しのび笑いはいくら小さくなっても決して微笑にはならないという点だ。では微笑とは何か?微笑こそ表情の三角形の中点、完全な無表情であったのだ。全ての表情が微笑に向かって解放されてゆく。微笑こそ、完全に非感情的なものを意味する。ヒトは微笑を通してその向こうにある表情を読むことはできない。有名なモナリザの謎の微笑を想い出してみたまえ。それから主人の前に出た下男の微笑を考えてみたまえ。微笑はどんな視線に対しても鉄の防壁になるのだ。この発見に力を得て、私は再び天国に帰った。

箱男、緑色のストッキングに続き、今作でも女性の足のモチーフが出てきた(バベルの塔の美術館)。このヴィジョンがまさにマグリット。超現実の文章は何度でも到達できない解釈を要求してくる。
★★★★