憂国 三島由紀夫

決定版 三島由紀夫全集〈20〉短編小説(6)

決定版 三島由紀夫全集〈20〉短編小説(6)

2.26事件の後の青年中尉の割腹自殺と妻の後追い自殺を描く。1961年発表。

「俺は今夜腹を切る」
麗子の目はすこしもたじろがなかった。
 そのつぶらな目は強い鈴の音のような張りを示していた。そしてこう言った。
「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」
 中尉はほとんどその目の力に圧せられるような気がした。言葉は譫言のようにすらすらと出て、どうしてこんな重大な許諾が、かるがるしい表現をとるのかわからなかった。
 「よし。一緒に行こう。但し、俺の切腹を見届けてもらいたいんだ。いいな」
 こういい終わると、二人の心には、俄かに解き放たれたような油然たる喜びが湧いた。
 麗子は良人のこの信頼の大きさに胸をうたれた。中尉としては、どんなことがあっても死に損なってはならない。そのためには見届けてくれる人がなくてはならぬ。それに妻を選んだというのが第一の信頼である。共に死ぬことを約束しながら、妻を先に殺さず、妻の死を、もう自分には確かめられない未来においたということは、第二のさらに大きな信頼である。もし中尉が疑り深い良人であったら、並の心中のように、妻を先に殺すことを選んだであろう。
 中尉は麗子が「お供をする」と言った言葉を、新婚の夜から、自分が麗子を導いて、この場に及んで、それを澱みなく発音させたという大きな教育の成果と感じた。これは中尉の自恃を慰め、彼は愛情が自発的に言わせた言葉だと思うほど、だらけた自惚れた良人ではなかった。
 喜びはあまり自然にお互いの胸に湧き上がったので、見交わした顔が自然に微笑した。麗子は新婚の夜が再び訪れたような気がした。

これほど死と美が最も美しく重なった文章を私は知らない。切腹の文化が世界に認識されるのが納得できる文章。
★★★★