憂国 三島由紀夫
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2002/07
- メディア: 単行本
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「俺は今夜腹を切る」
麗子の目はすこしもたじろがなかった。
そのつぶらな目は強い鈴の音のような張りを示していた。そしてこう言った。
「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」
中尉はほとんどその目の力に圧せられるような気がした。言葉は譫言のようにすらすらと出て、どうしてこんな重大な許諾が、かるがるしい表現をとるのかわからなかった。
「よし。一緒に行こう。但し、俺の切腹を見届けてもらいたいんだ。いいな」
こういい終わると、二人の心には、俄かに解き放たれたような油然たる喜びが湧いた。
麗子は良人のこの信頼の大きさに胸をうたれた。中尉としては、どんなことがあっても死に損なってはならない。そのためには見届けてくれる人がなくてはならぬ。それに妻を選んだというのが第一の信頼である。共に死ぬことを約束しながら、妻を先に殺さず、妻の死を、もう自分には確かめられない未来においたということは、第二のさらに大きな信頼である。もし中尉が疑り深い良人であったら、並の心中のように、妻を先に殺すことを選んだであろう。
中尉は麗子が「お供をする」と言った言葉を、新婚の夜から、自分が麗子を導いて、この場に及んで、それを澱みなく発音させたという大きな教育の成果と感じた。これは中尉の自恃を慰め、彼は愛情が自発的に言わせた言葉だと思うほど、だらけた自惚れた良人ではなかった。
喜びはあまり自然にお互いの胸に湧き上がったので、見交わした顔が自然に微笑した。麗子は新婚の夜が再び訪れたような気がした。
これほど死と美が最も美しく重なった文章を私は知らない。切腹の文化が世界に認識されるのが納得できる文章。
★★★★