いのちの食べかた 森達也

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

魚は切り身で泳いじゃいないって、TVで見て知ってるよ。釣り上げられて、冷凍されて、市場に届いて……。じゃあ、毎日食べてる大好きな「お肉」は、どんなふうに食卓に届くの? 誰も教えてくれない、食べものといのちの、たいせつな関係。

食べれるところ、使えるところは徹底して使う。そうでなければ逆にかわいそうだ。
『牛や豚たちはきっとこう思っている。「僕たちは食べてもらえて幸せだ」と。』
……そんなごまかしやきれいごとを、僕はこの本に書くつもりはない。殺される彼らはやはり哀れだ。殺されて嬉しい「いのち」などありえない。幸福なはずはない。
 僕が書きたいことは、彼らを殺しているのは、君であり、僕であり、僕たちすべてなのだということだ。

屠殺場と部落差別の関係。

 今も世界に残る差別問題のほとんどが、宗教や民族などの「違い」が理由であるとするならば、日本に残る「部落差別」と言う問題は、いったい難易を理由としているのだろう?
 答えを先に言えば、「場所」と「血筋」だ。どう某角解体を仕事としたから「穢れている」とされた集落が被差別地域とナリ、その場所に生まれた子供たちまでも、当然のように蔑視され、差別される。要するに「血筋」についても、その根っこには「場所」にある。

 島崎藤村の『破戒』。被差別部落に生まれた教員の生涯を描いた小説。彼の父の言葉。

たとえいかなる目を見ようと、いかなる人にめぐりあおうと決してそれとは打ち明けるな、いったんの憤怒悲哀にこの戒を忘れたら、その時こそ社会から捨てられたものと思え

部落問題の根深さが垣間見える言葉。

 だまされることの責任。第2次世界大戦後、映画監督伊丹万作の文章。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。皆が皆口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲では俺がだましたのだといった人間はまだ1人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつ分からなくなってくる。多くに人はだました者とだまされた者との区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へ入れば皆上のほうを指して、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというに決まっている。すると、最後にはたった一人か2人の人間が残る勘定になるが、いくらなんでも、わずか1人や2人の知恵で一億の人間がだまさえるわけのものではない。(中略)つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだと思う。つまりだますものだけでは戦争は起こらない。だます者とだまされる者とがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任んだどが悪の本体なのである。

森達也はQuickJapan67号で性善説性悪説ならば、性善説の立場をとると述べている。このことを踏まえながら、伊丹万作の文章の後の展開を見る。
 森達也はこう述べる。戦時中、戦意を高揚するような記事しか載せなかった新聞は大いに批判されるべきだ。このような報道になったのは軍部や国家からの弾圧のせいだとほとんどの人が思い込んでいる。でも事実はそうではなく、戦争への反対意見を表明したら明らかに部数が落ち、国民が望む記事(=戦争翼賛的=だまされること)を新聞社が書かざるを得ない状況に追い込んだと言うのだ。民意が戦争を望んだから新聞が翼賛的になったのか、新聞が翼賛的になったから民意が戦争を望んだのかは、にわとりと卵の理論のようで検証が難しいかもしれない。しかし性善説の立場をとるならば、人は人を基本的に信じるはずだ。森達也の論は性善説と矛盾しているようにも感じる。だまされないように知ることは大切であるが、「だまされるほうも悪い」というのは、やはり強者の理論のように感じる。当時メディア論というものがあったかどうかはわからないが、多様なメディアに囲まれている現在の私たちは自分で知るということの必要性を改めて自覚しなくてはならない。
★★★★