だれか、ふつうを教えてくれ! 倉本智明

だれか、ふつうを教えてくれ! (よりみちパン!セ)

だれか、ふつうを教えてくれ! (よりみちパン!セ)

ふつうっぽく見られたい。でも、なにがふつうか、わからない。目で見る。自分の足で歩く。それってあたりまえ、と言われる社会で、ぼくたちが気づかないでいることはなんだろう。いつか出会う誰かを思いうかべながら、「障害」をとおして、常識やルールのなりたちをゆっくり、とことん考えるための手引き。
 重度障害と軽度障害、重度のほうが生活しづらく、重度の人にあわせた街づくりをすれば軽度の人もたいおうできるわけじゃない。重度と軽度の関係は大きなリンゴと小さなリンゴではなく、リンゴとバナナのようなものだった。

 障害者であろうが、健常者であろうが、人間を簡単に理解するなんてことは、もともとできっこないことなんですね。ところが、「障害者」については日とくくりにされて、あたかもそれが可能であるかのような誤解が、なぜかはびこっています。
 心のありようなんてものはもちろんのこと、何が困っているか、どうしたらいいのか、といったことについても、丸ごと知るなんてことはできませんし、する必要もありません。
 むしろ、大切なのは、「自分は相手のことをわかっていないんだ」ということをちゃんと知っておくことではないでしょうか。「わからない」ということをわかっていれば、相手の言葉にしっかり耳を傾けることもできます。
 このことは、健常者が障害者に向き合う場合にだけ言えることではありません。健常者同士の出会いだって、全く同じです。わからなければわかろうとするけど、わかった気になるとそこから先には進めなくなってしまいます。
 だから、相手のことをわかっていないということは、恥でもなんでもないわけです。むしろ、わかっていないというその事実こそが、人を出会わせ、交わらせる原動力なのではないでしょうか。

 無知の知ってやつだね。みんな多かれ少なかれ自分はふつうだと思ってる。自分の思っている「ふつう」の感覚が相手も当然だというように。だけど本当はそうではなくて、そこにはさまざまな大きさの差がある。ひとくくりのグループとして語られる人々は、一枚岩にみんな同じような考え方や行動を取るように考えがちだ。そんなわけないのに、そのことはみんな気がつかない。だから、いつもそれを想像しなくちゃならない、意識しなくちゃならない。
★★★