ボクはこんなことを考えている 大槻ケンヂ

ボクはこんなことを考えている (角川文庫)

ボクはこんなことを考えている (角川文庫)

ノストラダムスやコックリさんから、ミスター・ポーゴ北尾光司。恐怖体験から映画、寺山修司まで。ロック界屈指の文学青年・自称「野狐禅」野郎オーケンが、のほほんと放つ珠玉のエッセイ集。
ローラ・パーマーとカツオ

 毎週日曜の夕方になると、お約束のように「宿題をやるべきか、それとも遊びに行っちゃおうか」「父さんの盆栽を壊した。言うべきか、接着剤でくっつけておこうか」といった低レベルの問題に心を悶絶させる半ズボンの少年。イガグリ頭の……そう!カツオだ。
 カツオの苦悩はいついかなる時でも、「良い子」と「困ったちゃん」の二者択一である。それは『ツインピークス』においてのローラの苦悩と、あまりにレベルの差はあるものの、基本テーマは全く同じ質のものだ。
 『サザエさん』を教訓物語として見た時、カツオの役どころは、「人間とは本来善い生き物か、それとも悪い生き物か」つまり生善か性悪かを視聴者に問う、とても重要な位置にあると思う。

 イガグリ頭に性善説を見出すオーケンはステキだ。えなりくんにエロスを見出すようなもんだろ。

あえて宮崎作品にミステイクを

 映画の楽しみの中に「アラをさがす」というのがある。映画の不出来な部分、ヘンテコなシーンがあるからこそ、逆にファンはその映画をこよなく愛する。
 宮崎作品に関しては、「ケチのつけどころが無い」という言葉が唯一のケチだったりするのだ。変な話だけどね。 

 だからシベ超はあんなにも愛されるのか!!

好きだ! リゾートが大好きだ!

 旅とは日常と異なる空間に束の間身を置き、そのことによって、日常を今までと全く違った視点で見ることのできる、発想転換装置のような役割を持つイベントだとボクは思っている。そう考えると、貧乏旅行は日常にはない興奮によって、リゾート旅行は日常にはないリラックスによって、それぞれもう一度日常を見直す転換装置の役割をキッチリと果たしているわけで、つまり方法は違えども、効用としては一緒のはずだ。

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド

 見た目よりも不良でロケンローラーのボクに、LSD体験の歯止めをかけているのは、父と母の存在だったりする。
 別にボクは、警察のご厄介になって、したり顔のキャスターから「まったく、芸能人のおごりとしか言えませんね」とかコメントされることなど屁とも思わないのだけど、とーちゃんかーちゃんが息子の不祥事によって外出しづらくなり、わざわざ裏道づたいに15キロ先でタバコを買ったり、買い物かごからネギが落ちて、「あら奥さんおネギが……」と親切に言われても顔を見られるのがつらくって「いーです、いーです、さしあげます。無農薬でおいしいですわよ」とか言いながら小走りにその場から逃げ出したり、ましてや風邪をひいいて薬屋にコルゲンを買いに行ったら、「うちには麻薬はありませんよ」てないやみを店主に言われて悔し涙にくれながら店先のケロヨンをこっそりと蹴っ飛ばしたりするのかと思うと、さすがにどうも「スマヌ」「バカな息子でゴミン!」とゆー気分にならざるを得ない。
 「親の気持ちを考えた場合」なんてフレーズが心に浮かぶようになったのは、いつのころからだろうか。

かーちゃんのことを思えるようになってこそロックだと思うよ。
★★★★