僕は模造人間 島田雅彦

僕は模造人間

僕は模造人間

二十代作家の旗手による新しい青春文学の誕生。僕たちの、愛と性と青春への旅立ち―古代メニッピアの手法を縦横に駆使しながら〈模造人間=成熟した青二才〉の青春を描く80年代を代表するビルドゥングス・ロマン!

 ところで、人間ってのはみんな未完成の模造品だね。昔の人のパロディをやって生きているようなもんだ。僕だってそうだよ。誰かさんのパロディだぜ。小説を読んだり、映画を見たり、変な人と出会ったりして影響を受けるだろう。それで影響を受けたなりに生きるわけだ。当然、時代や状況が違うから、結局パロディになるんだよ。僕は三島由紀夫やちづるちゃんのパロディだ。

 童貞は不能でない限り、型通りの恋愛しかできない。規制のパターンを踏むのが性交への最短距離だと信じているからだ。少しでも型から逸脱すると、女に警戒心を与えてしまってセックスがお預けになるかも知れないとビクビクしているのだ。童貞を捨てる方法は繰り返しになっている。童貞という性的倒錯を楽しむ方法をくわしく書いたものは見たことがない。
 僕の周囲には童貞が腐るほどいた。童貞たることを誇りに転化しようとする連中も少なくなかった。例えば「プラトニック・ラブは可能か?」といった問題を考えて性欲に化学変化を起こさせようとするのである。こいつは高度な性的倒錯だ。ひたすら、精神のセックスを行うのだ。性欲をためにタメ、精神の錯乱状態を引き起こし、無限の性感を得ようとする一種のマゾヒズム……これには魅力があった。一回の射精と煩悶をともなう永続的な性感とどちらがいいかと問われたら……こんなことを考えるのは、「僕は童貞であることがつらいんです」と叫び散らすようなものだ。

 僕は亜久間一人が何者なのか理解できてしまった。もはや、亜久間一人は謎でもなんでもない。あいつは他人の身体や思考回路を複写する機械なのだ。
 人間は<僕>や<私>という部分と亜久間一人とか三島由紀夫といった模造人間の部分とが強引に合成されたものだ。<僕>は遺伝子とタンパク質への翻訳機械、有機的な器官から成る。そして、模造人間は他人の意識の中に住む<僕>の幻であり、<僕>の意識の中に巣食う他人どもの幻である。人間はこの2つの部分がよじれてつながっているからおかしなことになる。<僕>の中枢や諸々の器官は<僕>の意識の中に巣食う他人どもの幻の作用なしには活動せず、他人の意識の中に住む<僕>の幻は<僕>の中枢や諸々の器官の活動なしには存在しない。

 「自分探し」という嫌いな言葉がある。現在の生活を送っている自分は“本当の自分”ではなく、もっと自分が輝ける場所があって、そこにいる自分が“本当の自分”だという逃避の姿勢を肯定するための言葉だ。“本当の自分”なんて幻を追い求めるのではなく、自分は未完成の模造人間なんだという認識を持つことで、自分が世界のどこに立っているのか、時代のどこに立っているのかということが見えてくる。昔の人のパロディをやっていくことで、人生は楽しくなっていく。
 <人生はパロディだ。>
 本書は、青臭い10代〜20代前半という年代の人間に、アイロニックに人生の意味を与えてくれるだろう。

★★★★★