だまされないために、わたしは経済を学んだ 村上龍

JMM(Japan Mail Media)という「日本経済の回復」をメインテーマとするメールマガジンがある。おもなコンテンツは、村上龍が質問を投げ、それに対して金融や経済の専門家が答えるというQ&Aである。本書は、その質問に村上龍が添えたエッセイのうち、1999年3月から2000年12月までの分を加筆修正して1冊にまとめたものである。
約5年前のメールマガジンをまとめたのもので、「日経平均が1万5千円を下回りました。なぜ株価は下がったままなのでしょうか?」などとあり、底と言われた時代を過ぎた5年前でさえそんなに高かったのだと今の状況が怖くなった。
気になった部分を2点。

女子中高生に限らず、女性はいい意味で「制度的」です。彼女たちが好む「新しさ」は、すでにあらかじめ「ファッション」である必要があります、しかもそれは簡単に「飽きることができる」ものでなくてはいけません。女性には創造的価値観がないと言うわけではなく、価値観の変換には無謀な飛躍が必要で、いかなる意味でも女性は無謀なことには向いていないし、無謀なことを選ばなくてもいいのだという「刷り込み」が過去四百万年の人類の歴史の中で行われてきたのではないかと思います。

村上龍のマッチョイズムには時々辟易することもあるのだが、これは実に言い得て妙である。現在のお笑いブームに湧く女子中高生、韓国ブームに魅了される中高年の女性を見ていると「飽きることができる」というのが非常に重要なキーワードになっていると思えるのだ。

村上氏はインタビューで決まってきっかけについて聞かれるが最近「きっかけなんかない」と答えるようにしたそうだ。

きっかけなどないと言った後に、「人間の全ての行動は広義の経済活動であり、重要なのは『きっかけ』などではなく、有益な経済活動の機会に遭遇しようという積極性と、機会を捉えそれを活かそうという決意と、その意志と行動を継続していくための努力だ」と言う風に答えると、インタビューの場は完全にしらけてしまいますが、きっかけと言う言葉が機能している間は、日本がリスクテイク社会になることはないでしょう。

裏を返せば、「きっかけ」は常にそのへんに転がっていて、それに出会いさすれば誰でも何かを成就できる。自分が成功できないのはきっかけがないからで、他の成功者は単にきっかけがあったからなのだ、というエクスキューズが許される。そこには科学的な努力の必要性も、考え抜くと言う行為も、徹底的な検証という前提もない。というのが要旨だ。人はきっかけというものをいい訳にしがちである。いや、この断定でも私は「逃げて」しまっている。主語を「私は」とすべきところを「人は」とすることで他者との共有感、もっと言えばなれ合い意識を演出し、自己の怠惰を認めようとしない。氏の言葉は「うまくいかないことを環境のせいにすべきではない。」という私の信条を、より精緻に、より鮮烈に描写してくれた。
★★★