ツ、イ、ラ、ク 姫野カオルコ

ツ、イ、ラ、ク

ツ、イ、ラ、ク

森本隼子、14歳。地方の小さな町で、彼に出逢った。ただ、出逢っただけだった。雨の日の、小さな事件が起きるまでは。体温のある指は気持ちいい。濡れた舌は気持ちいい。それらが腰を撫でるのも、腹をすべるのも、背中を撫でるのも―。 苦しかった。切なかった。ほんとうに、ほんとうに、愛していた―。姫野カオルコの新境地、渾身の思いを込めて恋の極みを描ききった長編小説。
 本当に純粋な恋愛ができるのは、男が男であること、女が女であることを剥き出しにしていた中学時代だと。つまり、その時代の男女は学歴や化粧といったもので着飾ることがないし、経済状況、相手の立場といった、相手そのもの以外の状況を考慮することなく恋をすることができる。いや、恋はするものではなく、おちるものだと。
 小・中学時代の日常の描写が超越してリアル。プラスその頃では語彙の限界のために表現できなかったビミョーな気もちをも恐ろしい客観力で描写。女が「男は幼稚だ」と言うのをまざまざと見せつけられる文章。

 太田「おはよう、せんせ。今日のパンツ、何色?」
 梢美咲「教師をおちょくってんのか」と黒板消しで頭をたたく。
 女と男のもっともなる差のひとつとして、自慰行為について滑稽をもって語らないということがある。嘆息なり挑発なりつまりはそうした二のセンでもってしか語らない…傾向にある。女の自慰行為には具体性がないため、男たちよりは早くその行為を覚えながら、自分は自慰をしているという自覚がないことも一因だが、「自らの性」のなかでもとりわけ「自らの性」であるオナニーを滑稽をもって語るには、「自己客観」の中でもとりわけ「自己客観」の能力を要するわけで、笑いとはすなわち客観の能力である。この能力を女は欠いているとよく男は言い、その実、女より女らしい男は大勢いるのだが、性器による性別ではなく、この能力を欠いていることを女らしいとするならば、滑稽をもって自慰を語るはおろか、パンティの色を質問するという教え子の幼い下品を、高級な冗談で諌めることもせずに、笑いをすべて嫌悪する梢美咲は、女らしい、いつまでも少女のような教師である。
 まあ、このババアに授業を習うことはあらへん。ああ。男でよかった。太田は思った。

 腹が立った。こいつは自分を軽んじている。たかが14歳が。
 生きてゆく人間というものは23歳の後に43歳になって知る。23歳の自分はなんと若く、熱を帯びていたのだろうかと。しかし、やがて53歳になって知る。もし自分が今、43歳なら何にでも新たな挑戦ができたのにと。そして63歳になり、さらに知る。53歳の自分は、23歳とかわらぬほどに、なんと若かったのだろうかと。

 物語終盤、34歳になった登場人物たちを読んでいると、自分が同窓会に行っているような気分になった。物悲しくなったり、あんなに激しくなった感情を忘れかけてしまっていたり、そんな昔の自分を思い出してはずかしく思ったり、誇らしく思ったり。
 隼子と河村の別れの件で涙をおさえられなかったことは内緒だ。
★★★★★