誰にでもできる恋愛 村上龍

誰にでもできる恋愛

誰にでもできる恋愛

女性はこれからどうすればいいのか?すべての女性に共通した答えはない。あなたの訓練の度合いと、あなたの容姿で、回答はまったく違うものになる。崩壊同然の旧い社会システムに頼らない生き方の先に、充実した人生を過し、楽しい恋愛を経験するあなたがいる。

 結論から言うと、誰にでもできる恋愛などと言うものはありません。男も女も同じです。リスクを負える人間、つまり自立した男女にしか恋愛をする資格はないわけです。じゃあ、どうしてこんなタイトルをつけたかと言うと、反語と言うか、逆説的な意味を込めようと思ったからです。
 つまり、誰にでもできる恋愛と言うのは非常につまらないものだと言うことですね。その人が個人として持っている特別な力が、恋愛を特別なものにして、輝かせる場合があるだけで、平凡な恋愛なんかありません。
 私たちって本当に平凡な恋愛をしているの、なんて言っているお友達がまわりにいたら、よくその人の顔を見てください。美人でしょう?そうでなかったら、何かその人にしかできない仕事を持っているかだと思います。

 この本の冒頭には希望があった。だけどその後は「本質的にわたしたちは寂しい」とか「日本的なシステム」とか「経済は精神に影響を与える」とか「個人」とか「充実したコミュニケーション」とか「希望について考えている」とか「格差」とか「そういうアナウンスはまったくなかった」とか「イタリアでは信じられないような味のワインが飲める。」といったいつもの村上龍の文脈に無理やり恋愛を絡めて書いている。それもわかりきった事を。だから腹が立つ。早く宿題しなさい、と言われた子ども時代のように。わかりきった事を言われるから腹が立つ。
 最初に引用した部分について、太字だけ抽出すれば納得。他はおおむね反感。青臭いかもしれないけれど自立してなくても恋愛をする資格はある。自立していないもの同士の恋愛、多くの人がそうだった頃、紛れもない恋愛をしただろう。では片方が自立している場合を考えたらどうだろうか。自立したもの同士、自立していないもの同士よりも問題は難しくなる。しかし結論を言えばそれでも恋愛はできる。みんなわかりきった事だから理由は書かない。言わなくても恋愛はもっと自由なものってみんなわかってるよね?
自由だからこそ認識していないといけないこともある。

 恋愛でうまくいかなくなったら、どちらも半分ずつ悪いと言うのはきっと真実だ。たとえばつきあった男がやくざで、刺青を入れられてシャブ中になって売春をやらされソープに売られて最後は殺された、と言うような極端な場合でも、それが従軍慰安婦のような国家的・組織的なものがバックにあるわけではなく個人的な付き合いである限り、やはり男と女に半分ずつ責任があるのだと思う。
 いや、悪い男と言うのは確実にいて、男が100%悪いと言う場合だってある、と言う人もいるだろう。それは違う。そんな男を選んだ女にも責任がある、ということではなく、責任が半分ずつあるのだという風に認識していないと、男に依存してしまうからだ。
 すべてを男のせいにするのは、全てを男に依存している証拠で、当の問題に関与していないと認めてしまうことになる。

★★