特急こだま東海道線を走る 姫野カオルコ

子供だからこそ大人の何倍も人生の歓びや哀しみを知っていた―。日本がまだ垢抜けなかった1960年代に子供だった女性たちの、遠い記憶と現在が重なるネオ・ノスタルジック・ストーリーズ。
 問題:父が母に怒声を浴びせました。二人の間に気まずい沈黙が流れています。その時娘のとるべき行動は…

 私は必死で考えた。結果、来訪者の忠告を守った。一人っ子だから両親は甘やかすが、図に乗ってわがままを言うな。だから私は言ったのである。
「こだまが欲しい」
 赤川さんの座っていた框で、母と父の中間の場所で、私は言った。
「こだまの電車、欲しい。こだまが欲しい」
 ひとりっ子が言えば両親は願いを受け入れる。
「なあ、こだま買うて。こだま買うて」
 その要求に彼と彼女は意識を向ける。彼の理不尽な駑罵と彼女の不当な悲酸が消える。私は来訪者の忠告の通り、慮った。
「あの写真みたいなこだま買うて」
 繰り返した。事実は隠されるだけであって消えるわけではないことに気づかなかった私は、たしかに三歳十ヶ月の幼児だった。

 父と母の仲を取りもつために、欲しくもない「こだま」を欲しがった。
 僕は日本一頭のいい小学4年生はカツオ、3歳児はタラちゃんだと信じて疑わないのだが、姫野カオルコは3歳のときすでにカツオ並に頭が良かったと言えそうだ。
 ―――記憶と言うのはやっかいなもので、たとえ楽しい記憶であっても、あまりに明瞭だと、現在の自分の足元をすくわれるようなかんじがします。

★★