愛をひっかけるための釘 中島らも

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

愛をひっかけるための釘 (集英社文庫)

早く、一秒でもいいから早く大人になりたい。少年たちは理不尽な叱られ方をする度に怒りを一種のホルモンに変えて成長していく―。空を飛ぶ夢ばかり見た少年時代、よこしまな初恋、金縛りから始まる恐怖体験、さまざまな別れと出会い、とことん睦み合った酒の正体、煙草呑みの言いわけ。薄闇の路地裏に見え隠れする、喜びと哀しみと羞じらいに満ちた遠い日の記憶。
出会いと別れについて

恋愛は人を高みへと押し上げるが、その高さはそこからすべてのものが見下ろせてしまうような冷酷な高さでもある。この世のものならぬ至福の中に自分があればあるほど、いつかそのめまいに似た幸福に終わりが来るであろう予感も確固たるものになってくる。始まらなければ終わることもないが、恋愛という音楽がなり始めてしまった以上、そこには必ず終わりが来る。永遠にそれが響き続けることはない。
きたるべきその終楽章(カデンツァ)は、二つの和音のうちのどちらか一つの形態を必ずひとつ選らぶ。つまり、「生き別れ」か「死に別れ」である。
 ひとりの現実の人間に出会って、しかもその人と恋に落ちることは、考えてみれば奇跡のようなことである。万物が流転して刻一刻と相を変えていく。その金や銀やの無数の糸が絡み合い風に揺れていくうねりの中で、ほんの一瞬の偶然でそこに現出したのが彼女の姿であり、次の瞬間にはもうその姿はない。その一瞬の奇跡と、同じく偶然の幻影に過ぎない自分とが出会って愛し合うのである。それは安定した永劫の「無」のなかにあってほんの一瞬の、おそらくは何かの手違いによって引き起こされた「有」の出現であろう。いわば、「不可能」と「不可能」との稀有な出会いが恋というものなのだ。
 その光芒が激しければ激しいほど、待ち受ける闇は深いものになる。一度でもその闇の深さを垣間見たものは、もう一度それを見ることを峻拒するに違いない。「人に会えば悲しみが増しますから」というのは良くわかる。それを避けるためにあえて孤独のほうを選ぶのは、むしろ血の熱い人間こそが選ぶ生き方だとも思う。
 「失う側」としての痛覚がわかってくると、今度は逆に「失われる側」としての自分の存在についても考え始める。その結果、”生きているうちに、あまり人から愛されるような存在であってはいけない”のではないか、と妙な事を最近考えてしまう。だからできるだけつまらなそうに生きて、「ほんとにあの人は何が楽しみで生きてたんでしょうね」と、お通夜が悪口で盛り上がるような、そういうイヤなおっさんになりたいものである。

 すごくロマンチックにいいこと言ってたのに結論が「イヤなおっさんになりたいものである」で笑った。物事の本質がわかったうえでの高度なボケだなあ。これが中島らものエッセイのかたち。
 「反自殺クラブ」でも言及されてたけど、残される者の気もちってどこにも行き場所がない。趣味のない日曜のオヤジみたいに。人の心は失われゆくものに揺さぶられるけど、失われたものの前では硬直してしまうのだな。
新知識
ナルコレプシー」 突然眠気に襲われる病気。
「レタルギア」 嗜眠症。
アフリカの一部族には、排便やセックスを見られても平気なのに、ものを食べているところを見られると見も世もあらぬほどはずかしがる一族がある。
★★★★