阿修羅ガール 舞城王太郎
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/01
- メディア: 単行本
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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言っても佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくてとりもどすもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。
死ぬ間際に見たのが父・グッチ裕三と石原慎太郎と都庁に逃げる夢って。慎太郎車から押し出しちゃうしモト冬樹も出てくるし。まだまだ見たい、聞きたい、歌いたいって生への執着のイメージか?うん。比喩としてなら、あの夢はまあそれなりに、理解できる。
自己憐憫をやめたアイコは死の淵から戻ってきて考えた。
多分小山嘉崇は、そのときは、作った阿修羅像を壊すことに、自分の楽しみを見出してたんだと思う。
もちろん阿修羅像は自分だから、小山嘉崇は繰り返し繰り返し繰り返し、自分を斧で割って殺していたんだろう。
自分を壊す、自分を殺すってのは、脊髄と押して脳まで伝わるタイプの実際の痛みってものさえなかったら、結構皆のやりたがることなのだ。
んで新しい自分が前よりいい作品になってるかどうか、っていう問題は、死ぬ間際んなんなきゃ答えは出ない、っつーことにして話を戻すと、阿修羅像。
小山嘉崇がどうして阿修羅像に自分を投影したかって言うと、阿修羅もまた、元は悪ガキだったからだ。詳しく知らないけど、神様になる前は、仏様の邪魔をしたり、なんかいろいろ悪さをしていたらしい。でもきっといろいろあって、仏様の下に改心して、いい方の神様になった。
そして結局のところ、いいことをするのはいいところを持っているって事だし、いいところを持っているということは、いい人なのだ。いい神なのだ。
大崎秀雄は三つ子ちゃんの死体で作った偶像を「アシュラマン」と呼んで茶化していたけれど、あれはやはり阿修羅像だった。だからこそ、大崎秀雄は死ぬ間際、自分の死に悔いはない、この世は自分の作ったアシュラマンによって少しはマシな世界になったはずなのだ、と思ったのだ。キン肉マンの超人がひとりいたところで世界がマシになるはずだなんて、さすがの阿呆でも思えないだろう。やはりあれは小さなアシュラマンなどではなく、大きな神様、阿修羅の像だったのだ。
でも材料に問題はあろうとも、阿修羅像を作ろうとしたときに、大崎秀雄はいい神様の阿修羅になった…とは到底得ないけれども、そこへ辿り着くための道の、最初の一歩を踏み出した、あるいはその道を見つけた、いやいや、その道へと導かれる道しるべを発見した、くらいは言ってもいいと思う。阿修羅像を作ろうとしたっていうのは、何はともあれ、心の良い部分の表れなのだ。
新しい自分が前よりいい作品になってるかどうか、っていう問題は、死ぬ間際んなんなきゃ答えは出ない、っていうのは『バット男』でも出てきた舞城王太郎の人生観。そこはわかるよ、だけど犯罪者の更正ってこんなところから始まるのか?絶対間違ってるしアイコ、自己憐憫はしなくなったけど大崎秀雄にある自分を愛している自己愛に過ぎないんだよこれは。しかもこの考えを三つ子ちゃんのお母さんに言っちゃってるし。子供の死がまったく不可解であるよりは、不可解さは相変わらずあろうとも、一部分だけでも、何らかの答えが与えられた方がよいとか考えちゃってるし。決定的に致命的にアイコからは「自分以外の自己(=他者)」の存在が欠落してるよ。それは忍耐強すぎるお慈悲をもったアイコ独自の仏のイメージからもわかるし。いいところさえあれば全ては許されるんだってね。
許されざることはいくらでもあるんだよ、そんなんじゃ幸せになれないよアイコ。
少なくともまだ俺は「アイムプリティーファーフロムファッキンOK!」って感じではない。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。俺はまだやってける。
★★★★