いのちの対話 河合隼雄

いのちの対話

いのちの対話

公立中学校の土曜日休日実施、カリキュラムの削減、ゆとり教育が叫ばれる一方で収まらない、いじめや保健室登校、学級崩壊。教育の危機にどう立ち向かうか。大平光代山折哲雄養老孟司毛利衛ら9人を迎えての対談集。
大平光代

 養父はじめ周りに応援してくれる人が一杯いたんです。私を応援したからって何の得もないわけです。でも、ともかく無条件でおうえんしてくれるんです。「頑張りや、応援してるで」って言ってくれる。それが嬉しかったんです。子供も同じですね。条件つきではなく無条件で応援してくれる人が欲しい。ああ、私はここにいてもいいんだと始めて思いました。

柳田邦男

 若い頃はちょうど高度成長の真っ只中で、仕事をし、子供を育ててきた。あのとき、自分が子供に何をしてきただろうかと今振り返ると、たとえば、誕生日祝いだとかクリスマスプレゼントのときなど無意識のうちにデパートに行って品物を探してました。子供たちも同じようにしてきました。
 ある航空会社のキャプテンと話をしていて、がつーんと横っ面を殴られたような気持ちになったんです。彼の電子手帳入れのキルティング小袋などの小物が手作りなんです。訳を聴いたら誕生日の贈り物として3人のの娘さんたちそれぞれからもらったものだというのです。
 幼いときからお父さんへのプレゼントは買ったものではなく、手作りのものでなければもらわないといってきたんですね。なぜなら、プレゼントを買うお金は、お父さんが稼いで君たちに小遣いとしてあげたもの。それで買ってくると言う事は、お父さんが自分で自分のものを買うようなものだから、贈り物をくれるんならじぶんでつくりなさい、と。

河合隼雄

 最近、自己実現という言葉がしきりに使われますね。だが、実態は自分の好きなことをやって何事かを成し遂げるのが自己実現だと思われている。そんなのは自己実現やない。自我実現だと私は言うんです。人も自分もあまりやりたくないことをやる。奉公し、犠牲を払い、献身する。それによって何事かを成し遂げるのが、本当の意味での自己実現ですよ。奉公や犠牲や献身を再評価して世界に発信していくのは、これからの日本人の重要な役割ですね。

心は教えるものではなく、育てることが大切なので、心の教育において「教」はほとんど意味を持たないとお話しました。ところがこれは非常に難しく、人間の癖で、どうしても教えたくなってしまうのです。
 素人が陥りやすい失敗は、思わず言っているひとことです。例えば、子供が来て、「僕勉強ができない」といったとします。「そんなことを言わないで勉強したら」とひとこと言ってしまったらそれで終わってしまいます。僕の場合は「うーん」といっておくだけです。なぜなら、勉強できないことでその子がこれからどう悩むのか、園子が悩まないと解決にならないからです。ところが、素人の人は思わず慰める言葉を言ってしまって、本人の悩みを取ってしまうのです。

養老孟司

 僕、いつも偏差値を血圧で説明するんですよ。結局、正規分布ですから。
 血圧というのは、一応統計です。基準化するためにやっているわけ。だから血圧が幾つだっていいわけです。だけど、一応、人間全部測ると、真ん中が120で、140より上の人と、100より下の人は5%以下になっちゃう。2.5%ぐらいになるから、そのへんから高血圧と決めておこうと。こういう風にするだけのことですね。日本の入学試験が全く同じです。ちゃんと正規分布になる。
 東大の医学部に入るには、センター試験で1000点満点で970点取らなくてはいけない。そういう人たちがほとんどです。血圧でいったら300とか、そういう人なんです。(笑)
河合―血圧の高いのばっかり入っている。
 そうしたら、東大医学部で、内輪で若い教授が「裡の医学部は日本中からできる奴を集めて、バカにして出している」って。僕は、「それは治療として正しいんだ」って。(笑)
河合―血圧を下げた。さすが医学部(笑)。大蔵省は、下げそこなった。(笑)

河合― 僕は人間が変わるというのはどんなにたいへんか、という話をするんですよ。生活習慣を変えるというのは、大変なことですよ。もし私でも、変えられるんだったら、例えば、あさ、1時間早く起きて勉強すればいいわけでしょ。わかってるけど、絶対できない。もしそれしたら、どんだけ怒りっぽくなるかね。(笑)
 何かちょっと変えるというのは、すごいことなんですよ。それを皆、わからないから、こうしたらよろしいなんて、言うんだけど。
養老―それ、逆説的に言ったのが、モンテーニュ、一言でいってます。「習慣は帝王なり、それによって成しえないことはなにもない」。

毛利衛

 宇宙への旅というものが、日本人にとってどういう役割を意味を持つのかということは、もっときちんと議論をするべきです。アメリカにとっての役割は、明確なんですよ。アメリカは、世界の科学技術のリーダーシップをとっていて、その恩恵を他の国に与えているんだよ、という立場なんですね。だからアメリカはすごいんだ、プライドを持っていいんだということを示すわけです。
 しかし、その役割論は、日本では使えません。もちろん科学技術的な意味は大きいですが、それはどちらかというと副次的なもので、人間が宇宙に挑戦することは、むしろ死生観に関わる意味を持っているのではないかと思えてきたんです。
 第二次世界大戦もそうだったんでしょうが、あらゆる戦争で、人間は嫌々ながらそれに参加しますね。しかし、戦争に参加すると、ものすごく「死」というものを意識することになる。そうすると逆に、「生きている」ことのありがたみがわかる。そういう、「死」と「生」に対する切実な感覚が、どうも今の日本の社会に欠けているんじゃないかという気がするんです。日本はずっと平和な国で、大震災のようなことが起きないと、普段は死というものを社会として意識していない。しかし、死というものを意識しなくなった時代というのは、生きていることの実感も失われているのではないか。
 しかし、人間が人間を殺すことで生死を意識するということは、非常にレベルの低い意識の仕方ですね。
 そのなかで、日本はもう絶対戦争をしないということで今までやってきた。しかしそれだけではどうも、生命体としては沈滞していくのではないか。これから何が起きるかわからない、そういうときに、全体的な危機管理をきちっとできるようになるためには、やはりある程度「死」というものを個人のレベルばかりでなく社会のレベルでもいつも意識していなくてはならない。その上で「生きている」ということの喜びを見出したい。そこで、戦争などによるのではなく、一段と高いレベルで「生死」というものを意識させることを、科学技術によるロボットと対極にいる、宇宙飛行士にできるのではないかと思うんです。
 それは、チャレンジャー事故で7人亡くなった時に、世界中で大騒ぎして、人間の死が意識されたことから考えたことです。今、日本では年間の交通事故死者が1万人以上、自殺者が3万人以上を聞いています。にもかかわらず、その数に比べればはるかに少ない7人が死んだ時に、すごく生死というものを意識した。どこにその差があるのか。おそらく、ギリギリの状態に挑んでいる人たちの姿を目に見える形で示され、彼らの思いを共有していたからではないか。ならば逆に、そういう、ギリギリに挑戦する姿を見せることによって、死というものを日本の社会に意識させ、それによって生命としての活性化を図ることはできないだろうか。高いレベルの新しい挑戦をして、いつも命を賭けていますということを見せる場として、国際宇宙ステーションに代表される有人宇宙開発が、今の日本にとって、いちばんの意義ではないかと、私個人は思っているんです。
河合―それは非常に面白い考えですね。あの、戦争というのは最大の悪ともいえるんだけれど、悪とか死というものによって、善とか生の存在意義がわかって活性化される。
 実は、戦争なしで生きていくというのは、ものすごい工夫が要るんですね。そのことをみんな忘れているんです。ただ戦争を否定して、ああ良かった。と思っているけれども、そんな甘いものじゃない。戦争なしで人間が生きていくということは、ものすごく大変な選択をしているんだということを忘れているわけですよ。世界全体から見たらものすごく換わったことをしているわけですから、そういう意味で、もっと大変なことに人間としてチャレンジしようじゃないかと、生死を賭けて、お金をかけて、何かやるとすれば、宇宙に行くというのは非常に目に見えることですからね、そういう意味でもっと積極的になってもいい話しですねえ。
毛利―さらに、どうしてそういうふうに活性化することが大事なのか、そのことも考えてみたんです。生身の人間として宇宙に行って地上に戻り、何であんなに頑張っていったんだろうと振り返った時、やはり生命というものを意識せざるを得なかったですね。
 生命の歴史をずっとたどってみると、人間だって何のことはない、他の生命と同じ、40億年前に生まれた遺伝子をただ継承しているだけなんですね。それがバーーッと多様化してきた、そのひとつに過ぎない。途中で恐竜のように絶滅してしまったものもありますが、うまくいったものはずっと生きてきている。しかし、そこには常に、新しい環境への挑戦があったはずです。初めに海にいて、次に陸に上がって、空中に上がって、生き延びている生命は、挑戦の繰り返しだった。
 その延長線上として考えると、こうまで頑張って人間が宇宙を目指すのも、生命として生き延びようとする挑戦なんだろう、と思えてくるんです。生物はそもそも、生き延びる方向への挑戦というものに喜びを感じるようになっているのではないかとさえ思います。
河合―つまり、本能的なものということですね。本当は一人一人、その人として限界に挑戦することも。喜びであるはずですよね。しかし、それがちょっと今みんな見えなくなりすぎているのかもしれない。やはりスポーツ選手とか宇宙飛行士とか、人類の代表選手のやることはすごいからね、それと自分とを比べてすぐに「アカン」と思ってしまうんだろうけれど、それは間違いで、本当は、彼らを頂点にしながらも、それぞれみんなが挑戦する喜びを感じていけるはずです。そうすれば、自らの生き方も見えてくるんでしょうが、現代の日本人たちはちょっと元気がなくなっている。もっとみんな、そこのところを考えればいいと思いますね。

毛利さんカッコ良すぎ。偉大なる挑戦と経験から紡がれる思想には説得力がある!技術とか、人々へ与える夢よりも大きな、もっと先を見つめているんだ。生命の夢を。
そして全てを受け止め包み込むような河合さんの受け答えもカッコ良すぎ。こころを受け止めてるんだよなあ。

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