堕落論 坂口安吾

堕落論 (角川文庫クラシックス)

堕落論 (角川文庫クラシックス)

人間の「真実の姿」とは何なのか。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。生きよ墜ちよ、それ以外に人間を救う道はない。終戦直後、混迷期の日本人に衝撃を与えた「堕落論」が、いまふたたび未来を指し示す大きな力をもってあらわれる。道徳や世相にとらわれない、人間の真実の姿とは何なのか―人間の魂の孤独を残酷なまでにひややかにみつめた、坂口安吾の代表作。

「日本文化私観」
家について

叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると叱られてしまう。人は孤独で誰に気兼ねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている。
 だから、文学を信用することができなくなったら、人間を信用することができないという考えでもある。

「青春論」

 このような微妙な心、秘密な匂いを一つ一つ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいように大切であろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕らにわからぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして要望の衰えについての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女のあり方にははなはだ大きな距りがあると思われる。宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの侘しさが、お分かりでしょうか」という意味の一行があったはずだが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、一人ということにどのような痛烈なのろいをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。
 このような女の人に比べると、僕の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、かつ、だらしがない。てんでいのちが籠もっておらぬ。一本の髪の毛はおろかなこと、一本の指一本の腕がなくなっても、その不便についての実感や、外見を怖れる見栄についての実感などはあるにしても、失われた「小さないのち」というものに何の感覚も持たぬであろう。
 だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛たる開花の時と凋落との恐るべき距りについて、既にそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われがたいものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚しい。女の一生がすべて秘密となってその中に閉じ込められている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだという風にいえないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵や湧き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。もし理智というものを取り去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、ただ亡国だけしかありえない。女は貞操を失うとき、その祖国も失ってしまう。かくのごとく、その肉体は絶対で、その青春もまた、絶対なのである。

 宮本武蔵に「十智」という所があって、その中に「変」ということを説いているそうだ。つまり、知恵のあるものは一から二へ変化する。ところが知恵のないものは、一は常に一だと思い込んでいるから、智者が一から二へ変化すると嘘だといい、約束が違ったと言って怒る。しかしながら場に応じて身を変え心を変えることは兵法の大切な極意なのだと述べているそうだ。
 武蔵は三時間おくれて船島へついた。遠浅だったので武蔵は水中へ降りた。小次郎は待ちつかれて大いにいらだっており、武蔵の降りるのを見ると憤然波打ち際まで走ってきた。
「時間に遅れるとは何事だ。気後れがしたのか」
 小次郎は怒鳴ったが、武蔵は答えない。黙って小次郎の顔を見ている。武蔵の予期のとおり小次郎がますます怒った。大剣を抜き払うと同時に鞘を海中に投げ捨てて構えた。
「小次郎の負けだ」と武蔵は静かに言った。
「なぜ、俺の負けだ」
「勝つつもりなら、鞘を水中へ捨てるはずはなかろう」
 目ざとくも利用して武蔵はそう言ったが、しかし、そこに余裕などがあるものか。武蔵はただ必死であり、必死の凝った一念が、溺れる者の激しさで藁の奇跡を追うているだけの話しだ。余裕というものの一切ない無意識の中の白熱の術策だから、凄まじいほど美しいと僕は言う。万全の計算を尽くし、一生の修行を賭けた上で、なお、計算や修行をはみ出してしまう必死の術策だから美しい。彼はどうしても死にたくなかった。救われがたい未練千万な性格を、逆に武器に駆り立てて利用している武蔵であった。

恋愛論

 教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するに決まっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。
 恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえという事が成り立たないのと同じだ。
 人の魂は、何者によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に永遠などとはもとより嘘にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかして言うのも、単にある主観的イマージュをもてあそぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。
 人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏切るものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態度はともかく厳粛なものだ。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩のイノチがありうる。
 人は恋愛によっても、満たされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさがわかるほかに偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成り立たぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、とかいうが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また明記しなければならない。
 人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすればバカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。

欲望について

 私は昔から家庭というものに疑いをいだいていた。愛する人と家庭をつくりたいのも人の本能であるかもしれぬが、この家庭を否応なく、陰鬱に、死に至るまで守らねばならぬか、どうか。なぜ、それが美徳であるのか。勤倹の精神とか困苦耐乏の精神とか、そういう美徳と同じように、実際は美徳よりも悪徳に近いものではないかという気が、私にはしてならなかった。
 我々はまず遊ぶということが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないということを身を持って考えてみる必要がある。私自身について言えば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。しかし、他の何物かが人生の目的であるということを断言するなんらの確信を持っていない。もとより遊ぶということは退屈のシノニイムであり、遊びによって人は真実幸福であり得るよしもないのである。しかしながら「遊びたい」ということが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人を充たすものではなく、多くは裏切るものであり、マノンも侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかった。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩のほうをもたらすだろう。その意味においては人は苦悩ををもとめる動物であるかもしれない。

 「人は外見ではわからない」という言葉には一理あると思うが、人の持つ外見はその人の精神に影響を及ぼしうるとも僕は思う。それが男よりも女のほうで顕著なのは安吾のいうような本能的な思考の違いなのだろう。また、時間のとらえ方が違う―そのとらえ方は無意識だけれども―男女では、その恋愛生活において歪みが生じてしまう。時間の歪みは往々にして「束縛」や「すれ違い」といった形で現出する。
 人生の目的は何であろうか。恋愛で人は完璧に満たされることはない。仕事で満たされることもない。遊びで満たされることもない。しかしどれもやりたいという欲求があることは事実だ。人生は水漏れする深いプールで泳ぐことに似ているかもしれない。恋愛、仕事、遊びという名の水をプールに注いでいく。僕らは水を注ぎ続けなければ泳ぐことはできない。しかし注ぎ続けても永遠に満たされることはなく、時にはその水に溺れてしまうかもしれない。
 どの水を優先的にプールに注いでいくのか、それを仮に決めることにすら戸惑いを感じる。
★★★★