やがて哀しき外国語 村上春樹

やがて哀しき外国語

やがて哀しき外国語

プリンストン通信。久々の長篇エッセイ アメリカより愛をこめて

ブリンストン周辺では、
ヒエラルキーの風景があること、
大学村スノビズムがやっぱりあること、
元気な女の人たちがいること(フェミニズムの定着)、
アメリカの大学生はすごく勉強をすること、
アメリカの大学生は服装に気を使わない。むしろここでは服なんかに気を使わないというのがファッションみたいになっている。勉強とかスポーツとかに忙しくて、服みたいな余分なものにいちいち気を使っているような暇はないんだ、というメッセージみたいなものである。
ってことに生活感を感じた。

『運動靴をはいて床屋に行こう』
 僕はもうとても「男の子」と呼ばれるような年齢ではないけれど、それでも「男の子」という言葉には、いまだに心引かれるものがある。僕はやはりどちらかといえば「オトコ」というイメージよりは「男の子」というイメージのほうが、まだ自分自身に近しいような気がすることがある。こんなことを言うと、だからお前は未成熟で社会化してなくて幼児的なんだと言われそうだけれど、必ずしもそういうものでもないだろうと僕は思う。むしろ現実的年齢とはあまり―もちろんまったくというわけではないが―関係なく成立しているある種のものの見方、価値観の問題なのではあるまいか。社会的にちゃんと成熟していながら、それて同時にある部分では「男の子」でありつづけられる人だってきっといるはずだ。
(1)運動靴を履いて
(2)月に一度(美容室ではなく)床屋に行って
(3)いちいち言い訳をしない
 これがぼくにとっての<男の子>のイメージである。

 今僕の書いている日記は「遠い太鼓」のように、第一印象、せいぜい第二印象で成立している。淡々と記録をつけるということに意味を見出したぞ。

シンプルなことでも長期間にわたってそれを営々と維持し続けるとなると、やはりそれなりの苦労と言うものがあるし、その結果そこにある種の哲学のようなものが生じることになる。いや、哲学と言う表現はいささか大仰かもしれない。経験的視座と言うほうが近いかもしれない。持続する苦労の中からは―その苦労がどれほどの客観的必然性を持っているかということとはほとんど関係なく―往々にしてそういうものが生み出されるのだ。

 かならずしも、第一印象で物を書くのが浅薄で、長く暮らしてじっくり物を見た人の視点が深く正しいと言うことにはならない。どれだけ自分の視点と真剣に、あるいは柔軟にかかわりあえるか、それがこういう文章にとって一番重要な問題であると僕は思う。

★★★★