ニッポン問題。 宮台真司×宮崎哲弥

ニッポン問題。 M2 : 2

ニッポン問題。 M2 : 2

北朝鮮イラク攻撃、小泉政権、経済失政、学力低下サブカル解体など、若手論客が日本と世界を語り尽くす。
それでも「あえて」日本に留まる理由

宮台 文化問題の深刻さは、政治経済領域でも語られる。15年前ごろから人材流出が急拡大してるよね。特に女はそうだが、生涯賃金や社会的地位の点で、外国に出ちゃうか、外資系に入ったほうが合理的です。個人合理性を計算できるなら、日本に残るのはバカ(笑)。にもかかわらず、「“あえて”日本に留まれ」と言いうる“非経済的根拠”が、いま問われているわけです。
宮崎 だから、多少無理しても「構造改革」が必要なんでしょうねぇ。いま猛烈な勢いで、左右の反「構造改革」派の巻き返しが強まっているでしょう。貧富の差はイヤ。能力主義はイヤ。不公正な「戦後社会主義」のまんまがいい。まあ森永卓郎氏が言うように、日本人なんてその程度かもしれないけどね。だけど、本当に日本を守りたければ、実力のある人間に、「この国に留まりたい」「とどまれば得をする」と信じさせなければならない。世界の金持ちに「円を持ちたい」「日本に投資したい」と思わせなければならないはずでしょう。日本からの人材と資本の流出を食い止めなきゃいけないのに、「構造改革」がイヤな人たちは、国内の再分配の平等性のことしか考えていない。仮に「戦後社会主義」がとめられないのならば、留まっても得はしないけど、なお留まりたいと思わせる「なにか」がこの国に残っているかどうかでしょうねぇ。
宮台 そう。「日本に留まると損をしても、“あえて”日本に留まる理由がお前にあるだろう」っていえるかどうかが問題です。非合理の選択であるにせよ、「あえて」日本に留まると言う主体的選択を行う根拠を若い人に提示できるとしたら、いまやサブカルしかないと思うんです。僕が「想像的データベース」と呼ぶものがキーになる。「記憶がないのに懐かしい」と感じる現象ってなんなのか。鈴木清純が67年に撮った「殺しの烙印」という映画。去年後悔された続編「ピストルオペラ」に比べて「殺しの烙印」のほうが圧倒的におもしろい。東浩紀のいう“萌え要素”が盛りだくさんだからです。パロマのガス炊飯器とか、アドバルーンとか、ビルヂングとか、マネキン顔した女とか。
宮崎 ガス炊飯器に萌え萌え(笑)。
宮台 東いわく、萌え要素の元になるデータべースは記憶の中にある。でも記憶のない若者たちも「殺しの烙印」の各要素に萌える。なぜか。「殺しの烙印」に出てくる今言ったような文物が単品としてあるんじゃなく、個々の文物に漠然と備わる共通性を敷衍する結果、背後に巨大な〝60年代的空間”があると想像させる力があるからです。この想像された60年代的空間が「創造的データベース」。このデータベースは“記憶”じゃない。“個々のオブジェからエクストラポレイト(外挿)された想像的なホライズン(地平)”です。
宮崎 外挿的想像が60年代の実体と重なっているとは限らないし、ましてユング的な集合的無意識の記憶などではないわけですよね。しかし、その喚起力って何なんだろうね。たとえば「新世紀エヴァンゲリオン」の監督・庵野秀明氏は、電信柱とか遮断機とか公園の砂場とか遠方の工事現場とかに、執拗にこだわるじゃない。俺はそこに萌えるんだよ。萌えの傾向が、どこか庵野と重なるの。庵野の見せたがっている想像の風景が見えてしまう。
宮台 Jポップでいうと、GO!GO!7188が興味深い。彼らいわく、GSの記憶を再現したわけじゃなく、人から言われて聴いてみたら、GSそっくりだったという(笑)。つまり、2,30年しか生きてなくても、自分の音楽体験を外挿すると、一定の確率で日本的なもののデータベースを想像してしまう可能性があるってことだね。これは希望の光じゃない?
宮崎 うーん、苦しいなあ。とても大船に乗るような気分ではないけど、そこに賭けるしかないか。
宮台 日本的文物が風景としては減っても、希望を捨てないでいいと言うことだからね。僕たちの周りの文物が消えても、サブカルチャーを呼吸すれば「想像的データベース」が出来上がる。そういうことが現にある限り、サブカルに希望を託す理由はあると思う。

2人がサブカルを語った部分こそが俺にとってはこの本のメインストリームだった。「お礼エッチ」「海辺のカフカ」「ヒミズ」の話はどれもおもしろかった。
★★★