超恋愛論 吉本隆明

超恋愛論

超恋愛論

恋情とは何か、結婚とは何か。愛が極まるとき、それはどこに到達するのか。男と女の理想的関係は幻想か。

 日本は恋愛において後進国である。長い間、恋愛=結婚ではない時代が続いた。恋愛を実生活にどう着地させていくかと言うのが問題になる。明治時代に初めて北村透谷や国木田独歩が理想的な恋愛―近代化した女性と精神的なつながりが基本の関係を築く―をして、その延長線上に理想の結婚を夢見た。しかしそれを実践した彼らはことごとく挫折した。それは理想論ばかり振りかざす男に、女性が「この生活のどこに理想の家庭があるんだ」というギャップを抱くからだ。ではなぜ、理想の男女関係が築けないのか。やはり、社会に後進性の名残があるために、個人の力ではどうしようもないという部分があるからだ。これが西洋ならば、恋愛と言うのは個人と個人の精神の問題で、日が暮れたらどっちが飯の支度をするとかいうようなことは、なんら本質的ではない、ばかばかしいことだということになるだろう。
 恋愛というのはそれ自体楽しげなものだから、徹頭徹尾、男女で楽しいおしゃべりかなんかをして、一生そうやって暮らしていきたいところだけれども、そうはいかない。男女の地面の下には、因習とか伝統とか家族制度という泥沼、男と女が個人と個人でいられない泥沼がある。
 生活を共にすると、役割が固定されがちになる。社会的に女は不利なため、女のほうがその役割を演じやすくなり、そこで固定化が起こってしまう。そして不満が出てくる。
 男も女も、自分たちが背負っているものに対して相当自覚的にならないと、恋愛を日々の生活のうえに着地させることは難しい。自分にとって好ましいという基準だけに従って選びあった男女の恋愛は、一生続くのが当たり前であり本来的なのですが、現実には、生涯続く関係を成立させるには、社会に規定されている個人の感覚を少しずつ修正していくよりほかない。
 本来紙切れであるはずの婚姻届を出す、つまり法律婚をすることにどうして重みがあるのか。
 法律というものの根っこのところには、広い意味での宗教があるのではないか。いちばん最初に宗教が生まれ、その宗教のうちの最も強固な部分が法律となった。宗教の枝葉の部分を除き去って、一番硬いものだけを取り出したのが、法律だったと言うわけだ。
★★★