不道徳教育講座 三島由紀夫

不道徳教育講座 (角川文庫)

不道徳教育講座 (角川文庫)

三島由紀夫井原西鶴の『本朝二十不孝』にならって書いたユーモラスな逆説的道徳のすすめ。ウソ、いじめ、忘恩などの悪徳を奨励し、内的欲求を素直に表現することで、近代文明社会が失った健全な精神を取り戻そうとする。そして「自分の内にある原始本能を享楽すること」こそ文明人の最大の楽しみと説く。

 本書は洗練された美しい日本語で不道徳を説き、我々を啓蒙してくれる。その文章は金言にあふれていると同時に、笑わせることができるという点に只管敬服する。

『童貞は一刻も早く捨てよ』
 世の中はよくしたもので、処女でない年増の女性の中には、特に童貞を珍重する「童貞喰い」という種類の女族がいる。こういう女族は、今こそ奮起して、菩薩道実践のために挺身すべきであって、一人で百人や二百人の童貞を一身に引きうける覚悟でいてもらいたい。
 ただこういう女性に警告すべきは、男性の性欲というものは、女性の自惚れを満足させるためだけにあるものではなく、彼自身の自尊心を満足させるためのものでもある、ということを、くれぐれも忘れないでもらいたい。
 私はかかる女子挺身隊に、訓示を与えて、『童貞の少年の自尊心というものは、少女のそれよりもさらに傷つきやすくできている』ということを、周知徹底させなければならん。童貞の少年に対する時は、あくまで相手の男性としての自尊心をいたわりつつ、賢明、親切、熟練、冷静、沈着にことにあたるべきであって、決して侮辱的言辞を弄してはならぬ。諸姉の一言半句が、一人の男の一生の女性観人生観を決定することを考えて、菩薩の心を心として、菩薩道を実践せねばなりません。

この思想はみうらじゅんに引き継がれ現在に生きています。

『痴漢を歓迎すべし』
 女性の心理で、われわれ男性に、どうしても納得の行かないことがあります。それは、
「あなたが欲しかったのは、私じゃなくて、私の身体だけだったのね。汚らしい。あなたはケダモノだわ」
というような怒り方をすることです。これを逆に考えて、かりに男が、「君が欲しかったのは、俺じゃなくて、俺の身体だけだったんだな。汚らしい。君はケダモノだ」
と言ったとすると、何だかピンと来ない。よほど時代遅れのセンチメンタルな童貞青年が、年増女にでも童貞を奪われたあげく、捨てられたなどと言うときには、あるいはこんなセリフをはくかもしれない。
 男というものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めていたのだと判ると、一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるという妙なケダモノであります。
 彼女たちは、「私」のほうが「私の体」よりも、ずっと高級な、美しい、神聖な存在だと信じているらしい。だからこの高級で清浄で美しい「私」をさしおいて、それ以下の「私の体」だけを欲望の対象にする所業は許せないのである。これは奇妙な自己矛盾であって、もし女性が自分の肉体を、高級で、美しくて、神聖なものと信じていたら、それにあこがれる男の欲望をも、高く評価するはずであるが、多くの淑女は妙に自分の肉体それ自体を神聖で美しいもの感じない傾きがある。
 女性が自分の肉体についてもっている考えは二重になっており、
「私の体は美しいわ」
という自信は、ともすると個性とかかわりのない、『女一般の肉体として優れている』という感じ方にすぐつながるらしい。女性は自分の肉体に、終局的に、個性と主体性を自ら認めない傾向がある。これが女性が流行に弱い一つの理由でもあります。

男はセンチメンタルなケダモノであります。

『刃物三昧について』
 統計によると、凶悪犯罪件数のグラフは夏になると急カーブで上昇します。
 夏の暑さは人間を裸にするばかりか、人間が着ている理性の着物まで脱がせて、人類の深い埋もれた欲望を露呈させるものらしい。そこで刃物三昧がはじまるわけだ。こんなことなら、昔のサムライのように、丸の内へ出勤する全サラリーマンが、刃物三昧の気分を享楽することができるように、夏の間だけ帯刀御免で出勤したらいいかもしれない。
 満員電車の中で、村正や正宗が、背広の腰に、ガチャガチャとふれあう。それだけで、人々はえもいわれぬ夏らしい気分を味わうでしょう。
「きょうも交渉が決裂したら、あいつを袈裟切りにバッサリやりましょう」
と労組委員長が刀を撫でると、一方では、社長が、
「今日の団交の次第によっては、あいつを斬って捨てる。」
と虎鉄を撫でる。

コントであります!

『子持を隠すべし』
 私は、男性の孤独感を喪失した男を見ると、忿懣を禁じえない。この孤独感こそ男のディグニティーの根源であって、これをなくしたら男ではないと言ってもいい。子どもが十人あろうが、女房が三人あろうが、いや、それならばますます、男は身辺に孤独感を漂わしていなければならん。
 男性の孤独感というものは、近代では職業的孤独感と言ったらいいかもしれない。職業に熱中している時は「装われた独身者」ではなくて、「本質的な独身者」に還っている。女たちはこのような本質的な独身性をどうしても認めたがらない。その男が他人なら、法律上の独身ということばかり重んじるし、その男が自分の両人になれば、もう本質的な独身性というやつを、何とか自分の手で拭い去ってしまおうと努力する。そして「私のことを愛していないの?」などとオドカスのです。男は結婚して子どもがいればこそ、さらに「孤独な男」だというところに女性はもっと開眼して欲しい。
 しかし、こんな大きなことを言うが、私はこの間人に誘われて、夫婦づれで酒場へ行き、かえりがけに、言わないでもいいのに、
「さあ、赤ん坊が待っているから帰らなくちゃ」
などと、並みいる美しい女性の前で言ってしまった。これなんかは、男性の尊厳を台無しにする劣等な照れ隠しというべきです。

このようなお茶目で人間味に溢れるところが三島由紀夫にカリスマ性をもたらしめている。
解説より(本編ではないがあまりにも心の琴線に触れたので)

 『美しい星』という小説の中で白鳥座第61番星の未知の惑星から来た宇宙人は、地球人類は、事物への関心(ゾルゲ)、人間への関心、神への関心という3つの宿命的欠陥、病気を持っているから滅亡しなければならぬと宣言します。それに対し、大杉重一朗ら太陽系の宇宙人は、地球人類は次の5つの美点を持っているから救いたいと言う。
  彼らは嘘をつきっぱなしについた。
  彼らは吉凶につけて花を飾った。
  彼らはよく小鳥を飼った。
  彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
  そして彼らはよく笑った。
この5つの美点は世の中に有効なものではない無効なもの故に尊い、地球人類は芸術家だというのです。「不道徳教育講座」の先にあるものは、こういう深い逆説的な考えだったのです。

★★★★